昭和54年07月04日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
その日その日が立ち行く、立ち行っておるおかげ。そこに限りない信心の喜びが感じられる信心を頂きたい。今朝から私は、そう言う事は無いかも知れんませんけれども、頂いた事が、そのハッピーエンド、フレッシュと言う事を頂いたんです。ですからまぁそれをまぁお芝居やら映画やら、まぁあハッピーエンドに終ると、言った様な意味の事を申しますね。最後に幸せな結末が出たような時に申しますが、私共が日々ね、信心を頂いておる者の喜びというものをしかもね、フレッシュです新鮮です。
もう瑞々しい心で、信心を頂いておると言う事が、まぁ何と有り難い事であろうかと。それは、日に日にとにかく立ち行っておると言う事だけで、それだけの喜びが湧くような信心を頂きたい。今日も三度の食事をさせて頂いた。足らん足らんと言いながら、どうやら今日もお繰り合せを頂いた。上を見ればきりがないけれども、今日只今、私がおかげを受ておる、私一家というものを思うた時に、神様のおかげなればこそ、信心を頂いておるおかげでです。
ならば例えて普通から、もしいうならばです、まぁ難儀な事だろうと思う様な中にあっても、信心を頂いて道理を聞かせてもらい、御教へを頂かせてもらうと、お礼を申し上げる心、お礼を申し上げる事以外にない。だからこういう中にあっても、喜んでおれれると言う事は、ま信心と言う事が、どんなに尊くて有り難いものかと言う事を、それこそフレッシュな新鮮な心でそれが感じれれる、一日を締め括らせて頂く時にです。
本当に今日も広大無辺の御神徳の中に、おかげの中に過ごさせて頂いたと言う事を、心から御礼の申し上げれる様な信心になりたい。それにはやっぱり、なら十年位の信心は必要だと言う事。三年五年ではまだ迷い易い。昨日の御理解じゃあないけれども、はぁおかげを受けたと思い、又おかげ受けなかったと思い。いやおかげを頂いておっても、あれはふが良かったつだろうかと、言った様な事で片付ける様な事もある。
おかげをおかげと実感出けることの為に、やはり繰り返し繰り返し、やはり十年の信心がいると言う事、ね。そこからです、やはり容易い信心。そこからただ有り難い、勿体ないの信心が、私は頂けて来る様になる。昨日の一時の御祈念の後に頂いた御理解を、繰り返し読ませて頂いて、本当にあのう素晴らしい事だなと。昨日の一時の御祈念の御理解は「天地の事は人の眼をもて知りて知り難きものぞ。恐るべし、恐るべし恐るべし」という御教えでしたよ、ね。
昨日は、その教祖の神様が恐るべしと、一辺でよかろうばってん三辺も繰り返しておられ る所がね、昨日はっきり分かった様な気がするんです。信心を頂いていないと言う事は、こんなにも恐ろしい事なんだと。それはあの世この 世の事をかけて思うたら、そりゃ本当に恐ろしいです。いやこの世にあってもです信心を頂いていない人達の姿と言うものを、こりゃ私共が見せて頂くと、それこそ一本橋の上を渡っておられるような、はらはらするような思いが致します。
魂の世界に入ってからの事など、いよいよもって恐ろしい。というわけなんですね。
それが昨日の、あのう三つのまぁ歌のような御教へですよね。一つ、小賢しき人より見れば神は無し。神の叡智にふれてみて始めて分かる 神の威大力(みこころ)御心とは威大力と書きます。お互い御信心させて頂き、何が何やら分からん。ただ苦し紛れに信心、神様というた人もありましょうしね。
ただお尋ね事ならお尋ね事から入って来た人もありましょうし、まぁその入り口は様々であったに致しましても、段々お話を頂けば頂く程、天地の道理を頂けば頂く程、天地の御恩徳を分からせて頂けば分からせて頂く程、感ずる心と言うものは、お礼を申し上げる世界場かりだ。ね。小賢しき、だから人から見れば、神は無いのです、ね。神様を頭で云々する人には、神様は無いも同じです。それを身をもって言うなら、神の叡智にふれてみて、始めて神様の威大力と言う事が分かるのだ。
これを一つ分かった事だけでもね、信心を頂くようになっての思い方、考え方がこのようにも変わってくる。ひとつ,神業を神業なりと知らずして 生きてゆくほど恐いものなし。これは例えば信心を頂いておってもです、そこんところの有り難さというものが、神業を神業と知らない。自分の家にだけ、どうしてこんなに難儀が続く。それは難儀じゃない神業なんだ。それを神業と分かるからその事に対して、いうなら「やれ痛や今霊験をと」という心が生れたり、ね。
難あって喜べと言った様な心の状態、神愛として受けていけれる心が頂けなければならんのだけれども。信心を三年、五年では、ここん所が分かっておっても、実感としてそれをおかげをおかげとして頂く事は出来ない。それを頂こうと、それを本当な事を本当な事として、分からしてもらおうとする心。それが信心なんです。だから信心とはいよいよ有り難いものだと言う事が分かってくる。
ひとつ,永遠の魂悟らず、老いてゆく人ぞ悲しき 唯物の人の世界に住むぞ。恐ろし唯物というのは、マルクスの唯物論と言いますでしょう。神様は無いという学問です。それは永遠の魂。私共の魂はもうこの世限りのものではない、と言う事を分からせて頂いた時にです。言うならばこの世には私共は、魂を清めに来ておるのだ。しかもさまざまな問題を通して、いよいよ清めていけるんだ、改まっていけれるんだ磨いていけれるんだと言う事なんです。
そのただ唯物の世界に住んでいる人は、もうこげな恐しこつはないと言う事。まぁ分かりやすく言うなら、もう魂はもう言うならば、この世で地獄に行ったようなものなんだと。物への感謝、喜びというものが無い魂なんです。恐ろしい事でしょう。だから、例えばこの三つの歌の中から、私共が分かっていこうとしておる事、また分かっておる事。又こういう世界に御縁を頂いて、日々信心の稽古をさせて頂いておると言う事がですね、こんなにも尊い有り難いものである。
もうそれは今日一日、その日暮しのおかげであってもですね。そこんところを最後に言うてありますよね。「其の日其の日の言うならおかげを受けていけば立ち行こうが」其の日其の日のおかげを頂いておる事に対してです、信心を頂いておる事の喜びを感じさせて頂く、ハッピー・エンドフレッシュである。そういう日々を過ごさせて頂けると言う事が。まぁ何んと信心生活とは有り難い事だと言う事になるのです。何かいつもお願いしょるばってん、おかげにならん。頂き足らんごつ思うとる
。そこにはね信心の喜びは、いつまでたっても無いです。もしそれが成就致しましてもです。あぁおかげ頂いたというて喜びよるけれども、それは喉元通れば熱さを忘れて、又不平不足が出てくるです。信心の根本のこの三つの歌を、ひとつ皆さんしっかり書き写して行って、ひとつ覚えてね、これだけの事だけでもね、言うならば合楽に言うならば、通う値打ちがある。合楽で信心の稽古させて頂く者の値打ちは、ここにあるんだと言う風にです分からせてもらい、悟らせてもろうて、ね。
本当に信心を頂いておる事が、こんなにも有り難い事だ。もう私のような幸せな者があろうかと思われるような心が。しかも日々楽しゅう感じられる。そういう感じで御用頂くのであり、日々の生活が繰り返されるのですから、これにまたおかげが伴わないはずもないと言う事になるのです。ですから根本的なところが、分からせて頂いておる事をです、いよいよ有り難しと、分からせてもらう信心を、頂かねばいけませんですよね。
どうぞ。